Flowers in the Tsunami Aftersite in Northern Japan

3.11 東北大震災と日本縦断スタートから一年

Mar 14 • ブログ • 378 Views • No Comments

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3.11東北大震災から早一年。マグニチュード9の強烈な地震と津波がたくさんの美しい東北の街を一瞬に消し去ったあの日。行方不明者を含め1万9千人の犠牲者と数えきれない家や建物が失われ、まだまだ人々が元の生活に戻るには長い道のりが待つ2012年3月11日。

私が自転車で日本縦断に出発したのは、この地震の前日の3月10日でした。福岡県にある家をピンクの自転車「さくら」に乗って出発し、まずは沖縄へと向けて旅が始まりました。被災地からは遠かったものの、11日の午後、ラーメン屋さんに3時半に入った時に初めて、そこの古い小さなテレビで、2:45pmに大変なことが日本に起こってしまったことを知りました。

悲しい気持ちと混乱、そしてこんなにたくさんの人達がまさに今死んで行っている光景を目の当たりにし、自転車で旅をすることに後ろめたささえ感じました。この旅の始まりの為、何ヶ月にわたる準備と努力を費やし、今までの人生で一番ワクワクしたと言っても過言でない気持ちを感じながら出発したのをよく覚えています。そしてその次の日に、地震は起きました。

悲しさと何も出来ない無力感にしばらく襲われ、予定していた通りに楽しい旅の記録を世界に発信し始めるのに何日か遅れを取ることになってしまいました。その後は義援金を寄付できるシステムをこのサイトに導入し、私に出来る事は、やると決めたことを敢行し、美しい、おいしい、素晴らしい日本を少しでも多くの世界の人達に知ってもらう事だと自分に言い聞かせ、とにかく九州にいた事を幸運に思いました。数ヶ月後にはまさにあの太平洋沿いを自転車で走ろうと考えていたため、時期が違っていたら私も津波に飲み込まれていた可能性が十分にあったのです。

A boat on land in Ishinomaki 石巻の陸に上がった船

国内では混乱と不透明な福島の原発についての情報が錯乱していました。それから6ヶ月が経った9月12日に日本最北端の宗谷岬にゴールした後、南下して苫小牧からフェリーで仙台へと渡ることになります。

Road broken by earthquake and tsunami in Sendai 地震と津波で壊された仙台の道

私が被災地に入った時にはもう半年以上の時が経っていましたが、被害を受けた街たちは、戦場の跡地のような、もしくはそれ以上に大変な惨状でした。人気のない壊れた街に自転車で入った時、誰もいないその静けさで虚無感に包まれ、そして全てを一瞬にして流し去った自然の力強さに頭を強く打たれたようにただ立ち尽くし、涙がぼろぼろ流れました。

A home in Ishinomaki, wiped by the tsunami 石巻の津波で壊れた家

仙台からは石巻へと自転車で向かいました。そこから自転車で30分ほどの女川町にも、地元の人に話を聞いて行ってきました。どちらも漁師の街でしたが、とにかく想像を超えるスケールで全てが無くなってしまっていました。

地元の方達やボランティアで長く滞在していた人達が、ニュースでは聞かないような話を私にして下さいました。私は5日間の滞在の間に地元の4年生の女の子に英語のレッスンをしたのですが、その子もまた、本来子供達が経験すべきでないことをし、そして今大変なこと等を私に明るく話してくれました。その中の一つで私がとても悲しかったのは、小学校が使えなくなってしまった為に、中学校の建物を小学生達も使う事になっている状況でした。それだけなら問題はないのですが、中学生達に小さい子供達がいじめられていて辛いから学校に行きたくないんだという話でした。

私にもその辛い気持ちはすごくよくわかります。中学生のいじめはすごく陰湿で、私も経験したことがあるのです。最終的には謝罪されて終わったのですが、すごく傷ついた気持ちは大人になった今でも忘れないし、だからこそそんな事は絶対に人にしたくないと思っています。私はいじめられている子供達を守ってあげたい気持ちでいっぱいですが、一緒に学校にいてあげることはできません。復興で学校などの建物がまた元通りになるということは、こういった、精神的な(場合によって肉体的な)二次災害と言ったらいいのでしょうか、本来中学生と同じ場所にいるはずでない、小さな小学生達の真剣な悩みの解決にもなるんだという事を感じ、とにかく励ましの言葉をかけてあげました。

A building knocked over by tsunami in Onagawa 女川の津波で倒されたビル

でも、被災地では悲しいことだけではありませんでした。石巻の明るいみなさんのエネルギーで、私の方が元気をたくさんもらったというのが本当のところです。当初のショック、そして大きな悲しみ、それらを乗り越えて、いわゆる「普通」の生活に戻ろうと一生懸命頑張っている人々の姿がそこにはありました。この壊れた家の壁、女の子が描いたのでしょうか、みんなを元気にしようという気持ちが込められた絵がありました。私もこれを見て笑顔を取り戻しました。

Genki! (We're fine!) Painting by locals in Ishinomaki 元気!石巻

震災後に、大阪から石巻に引っ越してきて自転車やさんを始めた、同世代の「ちゅんさん」とも知り合いになりました。4月に石巻入りしてから、何千台もの自転車を修理し、ガソリンや車がなかったあの頃に一番役に立った自転車を、みんなの手元に渡すボランティアを自ら始めたガッツある男性で、困っているみんなを守りたいという強い気持ちあるちゅんさん。ピンクのさくらに乗って石巻のボランティアセンターに私がひょっこり現れた後、その近くにあった自転車屋さんに行けばいいよと言われ、ちゅんさんとその弟さんと知り合いになり、そこで5日間お世話になりました。私は付近の掃除くらいしかできなかったのですが、この兄弟のあふれるエネルギーと体力、そして何よりそのポジティブなやる気に心打たれました。

ガソリンのいらない自転車は、こんな大災害の後に人々の大きな身方になるということが実証されたのは間違いありません。それを引っさげてやってきた彼、すごい。

A bike mechanic from Osaka, now living in Ishinomaki 石巻に住む大阪からやってきた自転車やさん

ちゅんさんの弟、真也君とがれき掃除。ガラスなど色んなものが埋まっていて、なくなった家の後には雑草が伸び放題。

Cleaning in Ishinomaki 石巻で掃除

ちゅんさんはアーティストでもありました。絵を描くのが大好きで、これが彼の自転車やさん「そのこどもサイクルぅ」の看板です。これを見かけるだけでもみんなが元気になると思いました。津波の被害を受けた焼き鳥屋さんの大掃除と再開を手伝い、ボランティアセンターになっていた小学校から移り、お店の一部を借りて自転車屋さんを始めたちゅんさんは、地元の人たちにもとても慕われていました。私がここで一緒に写っている焼き鳥屋さんの東助さんも、私が石巻を去った数ヶ月後にお店を再開したそうです。そんな頑張るみんなに、私もたくさん元気をもらいました。

Ishinomaki, Miyagi, Japan 石巻

津波を逃れたたくさんの人たちには笑顔があふれていました。本当に優しい人たちがたくさんいて、私はお手伝いをするどころか、なんだか逆に助けられてしまった気がしました。私は日本縦断を終えた今でも、英語で世界中の人たちにずっと発信していきたい。この復興はまだまだ続いていて、これからも長い時間がかかるんだということ。日本を風化させない努力に加担しつつ、それを自転車の素晴らしさや楽しさ、日本の美、海の幸、山の幸、日本の幸と共に。問題は山積みだけれど、日本はあきらめずに頑張っている、そして応援してくれる世界中の人々に、ありがとうの気持ちを伝え続けます。

Ishinomaki Bike Shop 石巻の自転車やさん

This post is also available in: 英語

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